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太鼓たたきの日々
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石巻市立荻浜小学校卒業式

3/21、石巻市立荻浜小学校の卒業式に出席した。
卒業生2人、在校生7人の小さな卒業式。
※なんの話?という人は過去参照!→その1その2

去年の大震災をきっかけに、いろんな縁あって
交流させてもらうようになり、
子どもたちに演奏を聴いてもらい、
そして卒業式で唄いたいとの話をもらって以来、
ずっとこの日を待っていた。

自分がかいた曲が合唱曲になることは
(結果的には斉唱だったけど)
自分の夢のひとつでもあった。
自分がかいた曲がいろんな人たちに一斉に唄われたら、
どんなに楽しいだろう、嬉しいだろうと、
ほんとに単純な考えだ。
それで誰かを楽しませたり、喜ばせたりできるのなら、
これほど幸せなことはないだろうと。

音楽や芸術ごとは、自己満足だと言う人もいれば
大衆への奉仕だと言う人もいる。
お金が絡めばもっといろんな言われ方がでてくる。

しかし自分にとっては、その言葉全てが、
どれも一理あると思いつつも何かしっくりこない。

売れればそれでよし。
…結局はビジネスだ。自分以外の人間へ媚を売っている。

そうだろうか?
(ちなみにビジネスという単語を悪いモノの例えのように
使ってしまっているが本来ビジネスというのは
立派な経済活動なので別に悪いことではない。
そういうふうに言葉を使う人がいる、という話。)

売れなくても自分や自分の身近な人が楽しければよし。
…結局は自己満足だ。

そうだろうか?

「音楽っぽいモノ」に、それらの言葉が
当てはまることはあるけど、
音楽はどんな言葉ともイコールでは結べないもののように思う。

音楽は音楽だと。

自分が学生だった頃、美術の教育実習で中学校に行き、
そこで知り合った生徒たちの合唱コンクールを聴きにいったことがある。

以前、クリスチャンの集まる教会で
ゴスペルを唄う人たちのバックでドラムを叩いていたことがある。

他にも、「すげぇ」って思う唄や演奏、曲を聴いた時。

こんな時、「あぁ音楽だな」と思う。
というか、どういう言葉(文章)にもしようがない。


話が飛躍しすぎた。

でも、子どもたちと一緒に新潟で唄った時、
先生方や親御さんたちから
「子どもたち唄ってるよ」と知らせをもらった時、
そして卒業式で彼らの唄を聴いた時、
過去自分が体験した「すげぇ」音楽、場面、空間に、
ほんの少しだけ、
自分のやってきたことが近づけたような気がして、
ある意味「答え」をみつけたような感じがしている。

言い方は難しいけど、
「あぁこういうものが欲しくて
自分は音楽をやってきたのかもしれない」
と。

売れなくてもいいという台詞は
プロフェッショナルからの逃げのような気がして
使いたくないけど、
やはり売ることが目的なのかと言われると違和感がある。

言葉で言うのは簡単だけど、「目的」は見失ってはいけない。

最初は「国を良くするんだ」と意気込んで政治家になったつもりが
いつの間にか自分の財産や地位を守ることが
目的になってしまっている、というような悪例はよく言われる話。
一般的な仕事や生活の中にも、誰にだって、
そういうことはたくさんある。

いろんな夢や目的が、
日々の忙しさや苦しさでどんどんすり替わっていって
「なんのためにやっているんだろう?」って、
誰にでもある経験だと思う。


今回の経験で、これとほとんど逆の現象が自分に起こった。

荻浜の子どもたちの前で唄って以来、
どんどんどんどん霧が晴れていくような、
「あぁこれだ、これだったんだなぁ」
と思える瞬間がたくさんあって、
自分がやってきたことは無駄じゃなかった
と言ってもらえたような気がして、
なんとも言えない気持ちになった。

そして、これからさらに自分が何かを表現するにあたって、
この感覚は一つの軸になっていくと思う。

なんのためにやっているのか?
誰のためにやっているのか?

それらを言葉にしようと努力することは
とても重要だというのが自分の考えだけど、
やはり最後に残る
「どうしても言葉にできないところ」
それこそが一番大切。

その一番大切なことを、荻浜小学校の
子どもたちや親御さんや地域の人たち、先生方が、
自分に示してくれたような気がしている。

実はこれから先も既にいろいろと話があって、
まだ終わらないということが
本当に、とても嬉しい。

by kunihiko-saito | 2012-05-24 23:47 | 音楽のこと

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